【小説】あにき⑦【脊髄小脳変性症看護記録】

小説

※この記事の執筆者はATAU氏です。イタリック字体部分はちゃむやまによる注釈などです。※

 

鯉①

入院

父母へFAX6(H17年10月26日)

午後3時ごろ亮子さんから電話があり妻の松子が出る。

「熱が出て訪問医の指示でこれから関東第2病院へ救急車で入院させます。

その後のことは病院から帰って夕方またお電話します」

 

午後8時過ぎ亮子さんからの電話で「朝7度2分。訪問看護婦が来るころにはもっと上がって9度近く。訪問看護が訪問医に電話で知らせて、30分後には車で来てくれ入院させたほうが良いとの指示。和夫さんは入院には乗り気でなかったが医者が言うのでOK.する。透明な痰が夜中出てちり紙がかご一杯になり、自分で対処するのも大変そう。それで和夫さんも自分も良く寝むれなかった。意識ははっきりしている。明日は入院手続きもあるのでお昼過ぎに病院へ行くつもり。所沢には知らせましょうか?」

 

と言うので、わたしは「それでは明日お昼にそちらの家に行くのでわたしも一緒に病院へ行きましょう。所沢へはもう夜なので明朝わたしのほうから電話しておきます。お疲れ様でした」

 

翌日午前10時に家を出てお昼過ぎに着き兄宅でうどんをご馳走になる。亮子さんは何も食べていないようだ。以前より家はきれいに片付いているみたいだ。ベランダに出てみると鉢などきれいになっているのでビックリ。父母が所沢から来てきれいにしてくれたとのこと。

 

昨日の病院との連絡などでは訪問看護婦にだいぶ助けられたと亮子さんは感謝していた。訪問看護婦も子どもを持って働いているので亮子さんの身になって細やかに気遣ってくれる。あまり気を張ると疲れるので息抜きも必要よと言ってくれたり、子どものことでも相談に乗ってくれる。

 

二人で病院へ行き、受付で亮子さんが入院手続きをした。わたしに入院時の連帯保証人になってくれというのでOKして署名した。3階の病室へ、2人部屋で狭いが窓側に兄が居る。誰か見舞いの方が先に来ていた、亮子さんの親友らしい。ずいぶんと大きな声で兄に話しかけている。

 

「大きな声が患者を元気にするのヨ」とその友人は言うが病院には不釣合いに思った。他のベッドの方に迷惑をかけないか気になった。あとで隣の方に「お騒がせしてスミマセン」と声をかけておいた。

 

若い男性でそれほどは気にしていない様子だった。患者の横のスペースは狭くてイスも1つしかないので亮子さんは友人と下にお茶を飲みに行った。その後その方はそのまま帰り亮子さんだけ上がって来て鷹之進の写真を兄のベッド脇の台に置いたりした。

 

兄の言葉はモゴモゴとしているがどうにか聞き取れる(聞き取れない言葉も多いが、、、)。点滴だけで口からは何も食べてはいない。鼻から管がしてある。また尿の管から時々尿が出てくるのがわかる。寝返りを自分ですることができないので大変そうだ。

 

看護婦が来て氷枕を変えていく。兄はえびのように足を曲げているので、足をさすってあげた。最初冷たい足だったがすぐにピンクになって、気持ちよさそうに足を延ばしてくるので、その後足全体から体をさするようにマッサージしながら話しかけた。

 

「こうして刺激してやると筋肉にもいいよ。使わないとだめになるからね。マッサージ師に来てもらってやったらいいよ。気持ちも身体も硬くしないでノビノビと広げる感じがいいよ」などなど。足などかなり肉が落ちているが反対に腰周りはぶよぶよと太っている。

 

「ほぐれるよ」と兄。最後に頭と顔もマッサージしてあげた。髪が多少油っぽかった(洗っていないのかも?)。

 

父母は兄と会ってもなかなか会話までは困難でしょう。わたしの記憶にある範囲でできるだけ兄とのやり取りを伝えます。こうした会話も半分は聞き取れない不鮮明なものなのですが。

 

兄が「もう腹のほうはいいのか?」とわたしの身体のことを心配してくれるので

「もうだいぶ治ってきたよ。所沢の父母には入院したことを電話したよ」

「ビックリしただろう」と兄が言うので「もうビックリしないだろう、見舞いに来てもらうか?」

「来てもいいよ」と兄。

 

「今まで生きてきてなにが一番面白かった?」とわたしが聞くと兄は「外国にワインを買い付けに行ったことかな。仕事でドイツに行った、一人でね」。

「そういえば外国での兄貴の写真は生き生きしているね」

 

「さっき来た亮子の友人にはビックリ、まさか来るとは思わなかったからね」と兄が言うから

「亮子さんの一番の友達なんだろう?」とわたしが聞くと兄は「一番かどうかはわからないが、、、」

 

「外も見えて結構いい部屋だね。でも一人部屋の方がいいかな?」とわたしが聞くと

兄は「いや、隣に誰か居た方が良いな。一人は嫌だね、特に夜一人は嫌だ。隣は何か交通事故で足をやったらしい。でももう退院するのでは」

 

兄が「家のほうがいいな」と言い出すのでわたしが「痰をとることが家でもできればいいのにね」と言うと、兄は「それは病院でないとできない。管で取る。少し痛いがやっぱりそうして取ってもらうと楽だよ」

 

兄は携帯がほしい、と言うが病院なので使えないと思う。ラジオで昨日から日本シリーズを聞いている、できたらもう少し軽いラジオがほしいと言うので亮子さんに買ってきてもらうことにした。

わたしが「何かほしいものある?」と聞くと「ない」

 

「何か食べたい?」とわたしが聞くと、「食べるのが楽しみ。今は点滴だから食べられないけど。ジャムパンが食べたいな」。亮子さんの話ではパンは無理、おかゆか流動食みたいのでないと誤嚥で食べ物が肺に入る恐れがある。

 

途中メガネをかけたいというのでかけてあげた。兄は1時間ほど話して眠そうになり、疲れてきているようだ、メガネをはずして目をさすってあげた。

 

病院へ入院したことで兄は「助かったよ」と言っていたそうだ。あのままの状態で家に居たのでは自分は危なかったと思ったのだろう。

 

亮子さんには「今度医者に会ったらいまの病状や今後の治療のことなどを聞いておいてください」とお願いしておきました。

なお担当医は内科の芳賀先生になった。泌尿器科の先生には入院のことを訪問看護婦が伝えてくれた。

 

Fax以上

能と和夫

兄弟は和夫と能の2人だけである。和夫は万事において当たり障りのない普通を好むところがあり、能は反対に自らが変わり者であることを望んだ。

 

2人は違いすぎる性格の為か仲のよい兄弟とは決して言えないものだった。お互いに敬遠しあって正月に実家で顔を合わせる以外めったに会おうとはしなかった。

 

能は大学を出てシェル石油に入社後しばらくして労働組合の活動にのめり込むようになった。それは社内結婚した松子の影響が大きかった。仕事は二の次で組合の仲間のためにはからだを張って一生懸命だ。

 

おまけに三里塚闘争(成田空港建設反対運動)などにも夫婦で嬉々として出かけて行った。当然会社からも睨まれる。そんな能の危なっかしい生き方に和夫を含め家族中がヤキモキさせられ通しだった。

 

また能には世の中全てのことを悟りきったような妙に老成したところもあり、和夫などは能のことを「若年寄」などと呼んでからかっていた。

 

年が明けてH16年の正月、元旦が誕生日の和夫は56歳になった。例年のように所沢の父母の元に全員が集まる。そのとき能は久しぶりに会う兄嫁の亮子の姿に、「おや」と思った。

 

髪が乱れ顔にも憔悴の色が漂っている。皆は和夫の病気を知らされていなかったので亮子のこの変化が何なのかはわからなかった。

 

そして1月中旬のある日のこと。新宿にある損保ジャパン東郷美術館の券を能の友人がくれたので父と2人で行くつもりにしていた。

 

そしたら珍しいことに和夫から「俺も行きたい。その後3人で一杯の飲もうや」と電話があった。東郷美術館と言えばゴッホのひまわりだ、奥に鎮座したその絵(思ったより絵のサイズが大きかった)もさることながらその時に館一杯に展示されている若手の画家たちの競い合うような絵の数々が能の心を打った。

 

海に突き出た岬を執拗なまで何枚も描き続ける画家も居れば、冬枯れの木々の先がリンと空に突き出している梢ならそれだけを何枚も描く、きっと岬や木々の梢に神が宿っているとその画家は感じているのだろう。迷いのないその描きっぷりに能は清清としたものを感じとった。

 

やがて館を出て新宿駅のそばの弥勒亭(みろくてい)という飲み屋に入った。父の好みで日本酒を熱燗でちびちびやりながら3人で近況を話した。2人とも早期退職したのでその後のことや前年秋に他界した能の義理の父のこと(遺言のこと)など。

 

能は和夫から今まで受けていたよそよそしい感じは消え逆にべっとりとまとわりついてくるものを感じた。それが何であるのかを能は深くは考えなかった。一方の和夫は自分のからだの変化に対する不安を早く父母や弟に告げねばとモンモンとしていた。

つづく

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